日本書紀は、なんと1200年もの間、日本人の教科書だった! 「今こそ!日本書紀」第3回

こんにちは!

ねずさんと学ぶ「今こそ!日本書紀」第3回目をお届けいたします!

今回も『世界に誇る覚醒と繁栄を説く日本書紀』の本を書かれています、

ねずさんこと小名木善行先生をお招きして、『日本書紀』について教わっていきたいと思います。

よろしくお願いします!

はい、よろしくお願いします!

1.『日本書紀』とは?

前回は、『日本書紀』と『古事記』の違いについて伺ったんですけれども、

そもそも、『日本書紀』を全く読んだことがない人の方が多いと思うんですね。

『日本書紀』には、一体どういうことが書かれているんでしょうか?

簡単に言いますと、神話の時代から始まって、
女性の天皇である第四十一代の持統天皇までの時代のことを

書かれたものが『日本書紀』になります。

神話のところは年号が分からないので、流れを順番に書いていますが、
ある程度時代が明確に示されるようになってきますと、
きちんとした編年体で書かれています。

時間の経過を追いながら、
歴代の天皇についてお一方ずつ、
「この天皇の時の何年にはこういうことがあり…」ということを、
一つ一つ非常に詳しく書いていっているんですね。
 
今の今上陛下は、第126代の天皇になりますが、
第41代の持統天皇までの時代、時代区分で言うと飛鳥時代までの歴史を記したものということになります。

2.『日本書紀』は歴史書なのか?

 よく問題になることに、『日本書紀』は、歴史書なのかという議論があります。

―『日本書紀』は、神話から始まっていますもんね。

神話で始まっているということは、これは歴史書には値しないのではないか、という意見があるんですね。
 
今、『日本書紀』は歴史書として信頼に値しないから、
『魏志倭人伝』のような、外国の文献で日本の古代史というものを探るべきだという議論がありますよね。
 
しかし、そもそも歴史の名に値しないという以前の問題として、
「歴史とは何か?」ということを考えなければなりません。

歴史というのは、単に過去にあった出来事を記したものではなくて、
“過去にあった出来事を、分かりやすく筋道立てて説明したもの”
なんですね。

時間というのは一つの方向に流れていくものですから、
原因→出来事→結果、という風に、
流れをきちんと追っていくんです。

逆にいうと、結果→原因という風に、
「ある結果を生んだのは、こういった原因があったからではないか」
という形でも考えていきます。

すると、そういった情報が積み重なって、
「誰がどう見ても、こういう流れにしかならないよね」というような
一つの筋道が出来て、それを記述していくんですね。
 
各時代においても、一つの出来事だけではなく、
実際には、いろんな出来事が、同時並行で起こっているわけです。
 

例えば、今でいうとコロナウイルスが流行っていますけれども、
大変だと言ってる人もいれば、全然大したことないと言っている人もいますし、
実際に感染して苦労していらっしゃる方もいれば、そうでない方もいらっしゃいます。

いろんな出来事が同時並行で起こっている、
というのは、たくさんの人がいるわけだから当然ですよね。
 
ということは、
一つの時代の流れというものを書いていく時には、
ある程度ピンポイントで、スポットライトを当てていって、
流れをきちんと筋道立てて説明し、分かりやすくしていく

という努力が必要になるわけです。
 
これが、“綴ったもの”としての「歴史」ということになります。

だから、英語ですと、歴史のことを“history(ヒストリー)”と言います。
 
”his story (ヒズ ストーリー)”
「彼の物語」みたいなものですね。


西洋史ですと、もともとはヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』
という書が歴史書になっていて、その『歴史』の記述の仕方に基づいて、
全ての西洋史が書かれています。
 
東洋になりますと、司馬遷の『史記』が一番古い歴史書になります。

司馬遷の『史記』も編年体で、
「この時代にはこういう出来事がありました」
ということが詳しく述べられています。
 
『史記』の場合、実はこれにも記述の仕方に特徴があるんです。

まず、国が荒れた時に英雄が現れて、
並み居る敵を倒しながら、苦労して一つの国を建てる。

そして、その初代皇帝の時には、
みんなが安心して暮らすことができているんです。
 
ところが、皇帝が2代目、3代目…となるに従って、
だんだん皇帝の質が下がってきて、 
どうしようもないようなアホが皇帝になったために、
国がめちゃめちゃになってしまう。

そこで、天帝(天の神様)が鉄槌を下して、
国を治める皇帝の地位というものを、別の家系の別の人に移す。

中国の皇帝には、全部姓(苗字)がありますから、
その姓を変えるということで、これを“易姓革命”という風に呼びます。


違う人に皇帝としての権限を与えて、前の皇帝を滅ぼしてしまう。

そして、この滅ぼした側の新しい皇帝が本当に立派な人で、
最初は良かったんだけれども、
2代目、3代目…となるに従って、
だんだん皇帝がアホになっていって、また国が荒れて、
易姓革命が起こって…

そして、
やっと今、我が皇帝の素晴らしい時代になったんですよ。」
という、全部同じパターンなんです。

―積み重なっていかないんですね。

そうなんです。
毎回、同じ過ちの繰り返しなんですよ。(笑)

これが東洋史の特徴なんですね。
 
だから、司馬遷の『史記』以降に書かれた歴史書も、
全て同じ形になっています。

―そういう意味では、日本の歴史は、ずっと続いてきた一続きの物語として、それが神話から始まっているという点で、唯一無二なんでしょうか?

実際には、中国の歴史書も、神話から始まっていますね。

神話から始まっていることが、歴史書として有効か無効かといえば、
西洋史でいうと、ギリシャ神話も含まれてくるわけですから、
神話があるから歴史書とはいえない、とはならないわけです。
 
客観的に考えて、世界における歴史書と比較して考えることができますから、
何をもって歴史書とするかという見方でいうならば、
我が国の『日本書紀』というのは、
ちゃんと編年体で書かれているので、まさに歴史書そのものなんですね。

ただ、神話の時代というのは、編年体では書くことができません。

例えば、イザナギとイザナミは、何年のお生まれかは分かりませんよね?

つまり、“これは大昔のことであって、いつ何が起こったのかが分からないので、その部分を神話としてまとめましたということです。

ですから、歴史書として、非常に理性的な書き方をしているということになります。

にも関わらず、その『日本書紀』が歴史書として認められないというのは、なぜなのか。

実は『日本書紀』は、戦後、歴史書として認められなくなったんです。

3.日本人の強さを作る、すごい歴史観

―その前は違ったんですか?

はい。
戦前は『日本書紀』こそ、まさに我が国の国史とされていたんです。

日本が戦争に負けた時、
日本人は、なぜ世界を相手にあんなに勇敢に戦って、
植民地を無くしてしまうようなすごいことができたのか、

日本人がこんなにも強くなった原因は何なんだと、疑問に思われたんですね。


実際、昭和10年代の我が国の平均身長って、
男性が155センチぐらいで、女性が145センチくらいだったんですよ。
 
だから、山本五十六とか、鈴木貫太郎の記念館に行って、
着衣を見てみますと「これ今の中学生の制服?」と思うくらい、
すごく小柄だったんです。
 
欧米の人って、身長が高いじゃないですか。
身長190センチくらいあって、体も強くて。

そんな小柄な日本人が、特に初戦のうちは圧倒的に優勢で、
欧米の人達と戦って勝っちゃったわけですから。

こんな小さな日本人が、何であんなに強かったのかと研究したら、
要するに日本人は『日本書紀』という“すごい歴史観”を持っている

ということが分かったわけです。
 
この歴史が、日本人のアイデンティティを作っているのだと。

アイデンティティというのは、
・共同体としての中心となる柱
・人生を生きる指針
・人生の核心

といったものですね。

日本の強さの理由がその歴史観にあるのなら、
日本人から、人生の核心となるものを奪ってしまえ!

ということで、これを教えないようにしようということになり、
GHQが日本人の歴史教育を禁止したんです。


神話教育も禁止しました。

具体的にそれは何を意味するかというと
『日本書紀』を用いた教育を禁止したんです。

そして、学会もそれを否定するようになっていきました。
 
ところが、当時の日本には
「そうは言っても、神話って大事だよね。」
と思う人たちが、たくさんいたんですね。


この人たちが、元々の『日本書紀』を使って教育をしようとすると、
場合によっては、逮捕されたり公職追放されてしまったりするので、
じゃあどうしようか、となったわけです。
 
そこで、
『日本書紀』がダメだと言うならば、『古事記』があるじゃないか!
ということで、『古事記』が普及していったんです。

―そこで『古事記』が登場したんですね!

だから、現代の我々からすると、
どちらかというと『古事記』の方が主流で、
『日本書紀』はあまり主流ではない、という印象を持っている方が多いですよね。

しかし、実はもともとは『日本書紀』が主流であったということなんです。

―教科書ぐらい、よく読まれていたものだったということですね。

 そうなんです。

4.『古事記』と『日本書紀』の違い

内容的にも、『古事記』と『日本書紀』では、大きな違いがあるんです。

『古事記』はどちらかというと神々の書であり、
“神々のご意思として”こういう風になってきました、

といったような書き方をしているので、やや前後の脈絡がありません

神様から言われたんだから、仕方がないでしょ。という風に、
バッサリ切ってしまうようなところが往々にしてあるんですね。
 
一方、『日本書紀』は、非常に客観的に書かれているんです。

神々の御意思といっても良いけれど、いきなり切ってしまうのではなく、
なぜそれが神々の御意思となったのかをきちんと書くという、
非常に論理的な書き方をしています。

言い方を変えると、科学的な書き方をしているんですね。

その点は、『日本書紀』の大きな強みと言えると思います。
だから、すごく面白いですね。

5.『日本書紀』はなぜ、編纂されたのか

―そもそも、何で『日本書紀』を書こうと思ったのか、書いた人達がどういう想いで残したのかが、すごい気になっていたんです。

 全部で30巻あって、それも40年もかけて作られているじゃないですか。

 40年もかけて苦労して、途中で心折れちゃいそうだなって思ったりしたんですけれど。笑

 何人も関わってチームで作っていた、と言われたりもしますが、それほど残したい想いがあったのか、もともと日本人のアイデンティティとして作ろうという意思があったのか、なんて考えたりしたんですが、ねずさんとしては、どのようにお考えですか?

まず、『日本書紀』が作られるきっかけとなったのは、
天武天皇の詔だったんです。

しかし、なぜ天武天皇がそのような詔を出されることになったのか
というきっかけをさらに辿っていくと、
“白村江(はくすきのえ)事件”に至るんですね。
 
白村江事件では、朝鮮半島の百済(くだら)という国が滅ぼされて、
日本が朝鮮半島に救援軍を送りました。

そして、唐・新羅(しらぎ)の連合軍と日本が、3年戦いました。
 
もともとは圧倒的に日本が優勢だったんですが、
3年経って気がついてみたら、朝鮮半島で戦っているのは、
唐の国の人民解放軍と日本軍だけだったですね。

そもそもこの戦いは、朝鮮半島にあった
新羅と百済という国の戦いなんですよ。
 
中国の唐の国の軍隊は、あくまでも新羅のお手伝いで、
日本の軍隊は、あくまでも百済の軍隊のお手伝いです。
 
当事者は、あくまでも新羅と百済なわけですよね。
 
ところが、3年経って気がついてみたら、
戦っているのは、いつも唐の軍隊と日本の軍隊だけだった
んですね。
 

「これ、やってる意味ないよね…」ってなりません?
 
実は、同じことがつい最近も起こってるんです。
 
第二次世界大戦後、
“朝鮮戦争”といって、北朝鮮と韓国が朝鮮半島で戦争をしたんですね。

どちらの国も、正当な朝鮮半島の支配者だと名乗っていながら、
結論がついていないので、
「とりあえず”38度線”で、北朝鮮と南朝鮮に分けましょう」
ということになったんです。

これも、もともと北朝鮮が韓国にいきなり軍事侵攻する
というところから始まっているので、

「やはりその戦争を収めなくてはならない」ということで、
韓国の側に、アメリカや第二次世界大戦当時の連合国諸国がついて、
米軍が中心となって、北朝鮮軍と戦ったわけです。
 
朝鮮戦争も、やはり3年くらいかかっているんですよ。
 
ところが、3年経って気がついてみたら
いつも最前線で戦っているのは、米軍と中国の人民解放軍だったんですね。

 
韓国の軍隊はどこ行っちゃったの…?って、なりますよね。
 
さらに、韓国の大統領は、その間することが無いものですから、
「日本の九州は韓国の領土だ」と言って、
李承晩ラインという独自の領域を主張し始めたんです。

日本側としては、
「冗談じゃない、九州は日本だ。」と主張したら、
だいぶ戦線を縮小して「竹島は、韓国の領土だ。」と始まったんです。
 
本来、北朝鮮と韓国が戦争をしているはずですよね?
 
韓国にはそんな余裕は無いはずなんですが、
戦いは米軍と中国軍がやっているので、
日本側に侵攻し始めるというような構図になっていたんです。
 
米軍としても、もうこれ以上戦うのは意味がないということで、
中国の人民解放軍と、北朝鮮と、米軍が三者で話し合いをしました。

そして、
「戦線を平壌(ピョンヤン)よりも北側から“38度線”まで一旦下げるから、

ここでとりあえず休戦協定を結びましょう」
ということで、韓国は関係なしで、

この3国で結んだ休戦協定によって、朝鮮戦争は終わったんです。

―それと同じようなことが、かつても起きていたわけですね。

そうです。それが白村江の戦いだったんです。

白村江というのは、今の韓国の真ん中あたりですよね。

日本は白村江事件のときに、
「もうこれ以上戦っても意味がないから、戦線縮小して、
白村江まで軍隊をひいて、そこから帰りましょう」
ということになったんです。
 
「戦も終わって良かった!これでやっと国に帰れるね。」
なんて言いながら、船に乗って、鎧も脱いで、
「いやーお互い大変だったな、いっぱい飲もうや。」
とみんなでお酒を飲み始めたら、
突然火矢が注がれて、1万人ぐらい殺されてしまったんです。
 
白村江の戦いってよく言いますけれども、
実際には”白村江虐殺事件”ですよね。

―そんなに大規模な被害を受けたんですね。

 その火矢を放ったのは、誰だったんですか?

新羅です。
 
新羅は、唐の軍隊と日本の軍隊の両方に、火矢を放っていますので、
唐の軍隊は、日本軍がいきなりだまし討ちをしてきたと思って、
日本を攻める。
 
攻められれば、日本も反撃しなくちゃいけなくなってくる。
 
そこでぐちゃぐちゃの戦いになって、
気が付いたら、日本が1万人余りの損失を損害を出してしまった


一言で言えば敗戦ですが、そもそもがだまし討ちですよね。

―そもそも、なぜ当時の日本人が戦いに行く必要があったんですか?

百済が、日本の属国(日本に対する朝貢国)だったからです。

属国ということは、百済に何かあった場合には、日本が守ってあげる
という約束事があるということです。

当時、新羅が百済を滅ぼしてしまったので、
百済の王子様が人質として日本にいましてね。

どうしても百済を救援したい、復興したいということで、
倭国(当時の日本)が軍隊を派遣しましょうということになって、
朝鮮半島で戦うようになったわけです。

 
実は、そのまた背景みたいな話もあるんですけれども、
そこまでいくと、長い長いお話になってしまうので。(笑)

また機会があれば、改めてお話できたらと思います。

―そうですね。でも、この『日本書紀』が成立した当時の時代背景には、ねずさんがおっしゃったようなことがあったわけですね。

そうなんです。

この“白村江事件”によって、
日本国内の豪族の大事な子どもたちが、
朝鮮半島で1万人も死んでしまったわけですよね。

確かに、天皇中心としてまとまった国であるということは、
大切なことだと、やはりみんな思うわけですよ。

しかし、だからといって、我が子が死んでしまったとなれば、
死んだ我が子を返してもらいたいと、親心としては思いますよね。

ですから、中には、
これ以上、御皇室についていくことができません。」
という人たちもいました。
 
そういう意味で、
日本はバラバラに分裂してしまう危機的な状況にあったわけです。

 
その分裂した状態のところに唐の国が攻めて来たら、
日本はそれでもう終わりじゃないですか。

だから、その中にあって、日本を何とかして統一しなければならなかった。


そういった状況の中で、いろんな出来事があり、

最終的に
“教育と文化によって、同じ日本人であることに誇りを持てるようにしていこうよ!”

ということで作られたのが

『古事記』であり『日本書紀』であったということなんですね。
 
だから、今我々が日本を取り戻そうと思えば、
『日本書紀』に立ち返るというのは、

一番手短で、早く、しかも合理的であるということになります。

―なるほど、よく分かりました!

6.まとめ

ということで、今回は、『古事記』と『日本書紀』の成立の違いについて、ねずさんにお話頂きました。

ありがとうございました!

ありがとうございました!